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美術評論家・市原研太郎氏に執筆いただいた評論を掲載いたします。

イメージを追い求めて―――東義孝のアート


                                 東義孝に


 東義孝の作品を鑑賞するとき、「このイメージは存在するのか?」という問いが湧き上がってくる。彼の絵画やドローイングを見つめながら、それらのなかで諸々のイメージが乱舞する様を目撃してなお、それらは存在しないのではないか、と不思議だが、心地よい感覚に襲われるのだ。その理由は、現実の対象を写し出した一つひとつのイメージは再現的だが、彼の基本的技法であるコラージュ(裁断と結合)が、作品のイメージ全体を非再現的にするからである。


 それなら、シュルレアリストのエルンストと同じように、複数のイメージは無意識の動機に従って結びついているのだろうか? だが、東のイメージの組み合わせ方は、無意識の抑圧された欲望の回帰といったシュルレアリスムの原理によって決定されているとは思えない。では、彼がイメージを非再現的にしようと試みたのは、なぜか?


 それは、東がイメージは存在しない、というより、イメージを存在させてはならないと考えていたからではないだろうか。ちなみにイメージが存在しないとは、イメージが非再現的な(指示対象がない)だけでなく、イメージを構成する物質的素材がないことを意味する。勿論、東にとってイメージはないというのではない。イメージがあることは、その作品に接すれば明らかである(その知覚の仕方は、かなり複雑だが)。とはいえ、イメージは起源(指示対象と物質的素材)において存在せず、つねにすでにイメージは存在しない。


 一体、このようなことが生起するのだろうか? それが奇跡的に可能だとして、その意味(目的)はなにか? イメージが不在なのではない。不在なら存在が先行するはずであり、今はイメージが空き家だとしても、放蕩息子の帰還のように、いずれ舞い戻ってくるだろう。そのとき和解が成立して、イメージは真実と真理を取り返し、大いなる充足に到達する。だが、イメージがそもそもの始まりから不在となると、それが戻ってくると期待しようがない。たとえ実体として凱旋したとしても、われわれはそれがイメージだと判断できないに違いない。


 東が、イメージをそのように一見荒唐無稽に考えていたのなら、それで構わない。だが、われわれは「イメージ」という語を日常的に使っている。使用しているとは、その語の意味を知っていて、とどのつまり、イメージが存在することを前提しているはずである。しかし、それはヴィトゲンシュタインの言う「言語の意味は使用である」を拡大解釈しているからではないか。使用しているので意味はあると仮定してよいが、存在がそれに伴うとはかぎらないのだ。


 イメージは、通常物事を再現する手段として理解される。蝶の図を描けば、それが、われわれが現実世界でよく知る蝶自体であると認識される。パースによって「イコン」と名づけられた、オリジナルとコピーの類似性を梃子にした認識が、イメージの本質的な特徴であり、それが、イメージを現実の認識と区別する決定的なポイント(イメージは現実ではない)である。


 だが、それを斜めから観察すると、イメージが現実の認識とどれほどの相違があるか、心許なくなる。それは、イメージが現実の対象に似かよっていればいるほど起こることではなく(そうであれば、写真が被写体と見分けがつかないと言われるように、イメージの類似性が確乎として証明されるので、その類似性に含まれる差異も強化され、イメージが被写体とまったく異なると確信される)、むしろ似ている度合いが小さいイメージと対象の間に生じる。


 例を挙げよう。私の手と、同じ手の似ている度合いが小さいデッサンがあるとする。その度合いの大小で、描かれたデッサンが現実の対象ではなく、イメージとして認識されるというのが、イメージを把握する通常の手続きである。だが、手続きを逆にして、このイメージをじっくり観察した上で実物の私の手を眺めてみる。すると、手は非常に精巧に描かれたイメージに見えてはこないか?


 確かに、この観察実験を実行するのは困難なばかりか、そのように見るよう迫られる機会はほとんどない。ところが、われわれはマスメディアの報道や映画などのエンターテインメントを通じて、「イメージの氾濫」と呼ばれる現象に、日々囲まれて暮らしている。したがって、前述のようなイメージに現実を重ね合わせる知覚的な作業は、日常生活で無意識の裡に頻繁に行っている可能性が高い。


 アートで、この事実を確認する作品にも事欠かない。たとえば、ゲルハルト・リヒターの一連の作品のなかでも特異と言ってよいガラスを用いたインスタレーションは、ガラスの表面にかろうじて反映した周囲の風景(イメージ)と、ガラス越しに眺められる風景(現実)が重ねられて同一化される。後者の現実は前者のイメージと同一次元にあり、かつ同一ジャンルにある。すると結論はこうなる。現実はイメージである(少し遠回りするが)。現実がイメージであるとき、現実自体がその内容なのだから、イメージの外に指示対象はなく、かつ現実というイメージを構成する要素は物質ではなくイメージなので、もはやイメージに物質的素材はない。


 ここで改めて東義孝の絵画を見ると、彼が追い求めたイメージが、この類のイメージではないかと思えてくる。実際、彼の生い立ちの環境から集められた記憶であれ、メディアやインターネットから採集された情報であれ、彼の作品のモティーフとなるイメージ(複数の組み合わせなくとも単独で)に付きまとう非現実感は、それらが現実に存在しない、というより元々現実に存在しないイメージではないかと推測させる。


 かといって、現実に指示対象のない空想のイメージではない。彼が、自らのアーカイヴから取り出してくるイメージは、誰が見ても現実の対象や風景に類似しているからである(スーパーリアリズムのように酷似とまではいかないが)。東の収集した大量の多様なイメージは、オリジナルの対象をありのままに再現しないと感じられる差異のイメージであり、さらにそのコラージュ(切り貼り)は、現実をイメージに全面変換する使命を負わされた彼独特の技法ではないのか。だから、彼の描き出すイメージは存在しないと強く思わせるのだ。


 東によるイメージのコラージュは、それを極限に引っ張っていこうとする試みの結果である。その方法は、基本的に二つある。まず、図と地の単純なコンポジションを用いた、存在しないイメージの捕獲と定着である。普通、図と地の対比は、地の上の図のフェティシズム(存在の冗長化)を助長するものだが、彼の場合、フェティッシュが存在しないイメージを可視化するための重要な鳥もちの役目を果たす。


 その上で、イメージの坩堝に鑑賞者を導く巧妙な工夫が施される。それは、イメージのなかにイメージをはめ込む入れ子状の構造で、鑑賞者は、大きなイメージの輪郭の内部で、諸々の小さなイメージが形作る螺旋模様に引き入れられ眩暈を覚える。東によって組み合わされたイメージは、このようにして最終的に揮発し存在を喪失するのだ。


 東の作品にまだ残滓があるとはいえ、イメージは本質的に存在しない。厳密に言うなら、イメージは存在しないので認識不可能である。ということは、イメージが鑑賞者の目に触れることがない、あるいはイメージは知覚できないということだろうか? 存在しなければ認識どころか知覚できないのではないか? しかも、彼の作品の知覚の対象は空想ではないので、想像の領域とは無関係である。それゆえ、イメージの知覚があるとすれば、認識の領域に属しながら、それをはみ出すこと以外にない。東のイメージは、認識可能な現実の外部ではなく、その余白に生れるのだ。


 これをイメージの観点に立って語りなおせば、イメージは到来するにせよ、イメージが逃げ去った後に、その痕跡だけが残されるということである。言い換えると、イメージの到来と逃走の合間の空虚で、われわれはイメージを認識できないままに知覚する。これは概念なき把握であり、東が追い求めたイメージの存在なき様態である。


 それは、何を意味(目的に)するのだろうか? 過去と未来の隙間に花開く空虚にあって、その無制約性は人間を解放する。解放する機能をもった空間は、パラダイスと呼ばれる。パラダイスはユートピアと違って、どこにもない場所ではなく、まさに〈ここ〉(それは、ある特定の場所ではない現実の余白で、イメージが発生する空間)にある。この〈ここ〉が空虚であるとき、パラダイスは黄金となって顕現する。黄金は、物質的富裕を象徴しない。反対にそれは、空虚に直面してわれわれが体験する心地よい眩暈そのものである。パラダイスは、現実の非物質の余白である。


 東義孝は、このパラダイスというイメージを追い求めた夢追い人であった。